史実を歩く。

史実を歩く。

 

歴史小説で高い評価を得ている吉村昭氏のどのように執筆にあたり、どのように調査をしているのか。

これは、その「取材ノート」のような本でした。

 

 

私が吉村昭氏の小説を読んだのは「羆嵐」は最初でした。

実際に起こった三毛別羆事件を元にした小説で、読んだときは衝撃を受けて一気読みをしたことを思い出します。

事件の凄絶さもさることながら、当時の人々の心境や細かいところまで緻密に描かれた作品にグイグイ引き込まれて行きました。

その緻密な作品の生み出し方がわかる本でした。

 

この本を読み始めて感じたのは、歴史小説とはこれほどまでに取材を重ねていくものなのか。という驚きでした。

極悪脱獄犯を描いた「破獄」の際の取材では、行啓関係者の口のかたさに苦労をした様子が伺えました。犯罪者とはいえ、プライバシーを損なうような書き方をされては困る。という心理もあるので、そこは苦労をするのは仕方のないことであったかもしれません。

吉村氏が事実をそのまま書いていること、犯罪者を仮名にして記載していることを受けて何とか取材にこぎつけても、それで終わるものでもありませんでした。

人への取材だけでなく、資料の確認ももちろん行います。しかし、どちらも間違っている可能性があるのです。

天気も、小説では大事な要素です。

資料では雪だった。とあっても鵜呑みにせず、気象台への確認を行ったり、取材の折にその夜の天気を覚えていますか。という質問もして出来る限りの確認を行っています。

「私は、印刷された書物を全面的に信用することが危険であるのを何度も経験しているので」

という記載は、氏の苦い経験を感じさせました。

 

事実にひたすら向き合う。という姿勢は、氏の矜持だったのでしょう。

原稿用紙200枚以上を書いているものでも、途中で間違いに気づいたらそれを燃やしたそうです。

その内心について、「いったい何をしているのだ。と自らをなじるような思いであった。」小説書きとして劇的な書き出しがかけることに惑わされ、事実が違うことに気づけなかったことを恥じる内心が伝わってきました。

 

そして、小説は書いたらそれで終わり。というものではないという点も私には新鮮でした。歴史小説であると、その舞台となった土地の人から新しい情報や言い伝えなどを手紙で知ることがあるようで、そのやり取りがきっかけで修正や加筆をすることもあるとのことで、小説を形作る要素になっているのです。

小説家の凄さ、プロとはどういうものか。をまざまざと感じさせられました。

プロとは、ここまで考えて使える言葉だったのです。

 

余談ですが、私が読んだ本は第5刷で平成10年12月10日発行のものでした。

初版は平成10年10月20日で、短期間に増刷されていることに驚き、小説ではありませんが吉村昭氏の取材が評価されているような気がして少し嬉しくなりました。